札幌市営地下鉄南北線の澄川駅を西に出て、平岸街道を北へ約10分歩くと、左側に天神山緑地が見えてきます。緑地には、地域の歩みを感じることのできる「平岸林檎園記念歌碑」があります。
今回は、明治中期以降の豊平区平岸を振り返ります。
●大麦の栽培
平岸では明治4年(1871)に60戸約200人の入植者が、開拓使の用意した家に入り開墾を始めます。家と土地は、南北を通る平岸街道を挟んで東西に並び、仙台藩の武士や東北地方の農民、更に札幌から土地を求めた人達が懸命に切り拓いていきました。
明治4年 平岸村開拓の景 (北海道大学附属図書館所蔵)

冷害や樽前山の噴火など自然災害に見舞われ、離農する人が多く出ましたが、小作としてではなく自分の土地で鍬(くわ)を振るいたいと願う新たな入植者が次々と離農地に入り、明治半ばに農業で生活できるようになると、村としての結束が生まれました。
入植当初から栽培していたものに麦があります。寒冷地北海道では稲作は成功しないと言われていたため、開拓使は主食のコメに代わるものとして麦に着目し、外国種を輸入し札幌の村々に栽培させます。
平岸村でも栽培し、特にビールの原料となる大麦が、後になって農家の経営に大きく寄与しました。
明治9年(1876)開拓使は官営の札幌麦酒醸造所を設立します。北2条東4丁目の工場が、今も商業施設サッポロファクトリーとして残されています。
工場の建物を利用したサッポロファクトリーレンガ館

煙突の地上部分

官営札幌麦酒醸造所当時の商標(北海道開拓の村所蔵)


その後、開拓使の各種官営事業は民間へ払い下げられ、ビールの製造は明治19年(1886)から大倉喜八郎が経営する札幌麦酒会社が行いました。大倉喜八郎は、帝国ホテルや大成建設を設立した財閥の実業家です。
明治25年(1892)頃になると、平岸村でも大麦を大規模に栽培し、札幌麦酒会社の工場へ出荷するようになります。
明治39年(1906)には、札幌麦酒会社と他2社が合併して大日本麦酒株式会社が設立され、工場は札幌支店製麦所となり、札幌の村々から大麦やホップなどの原料が運ばれました。
大日本麦酒株式会社 札幌支店製麦所(北海道大学附属図書館所蔵)
北7条東9丁目にあり今はサッポロビール博物館として利用されている。

大正5年(1916)には、大正天皇の即位を記念して、神社が現在地の平岸2条18丁目へ移転されます。例大祭は9月5日、宵祭は4日で、昭和初期のお祭りには活動写真(映画)、相撲、踊りなどの余興があり、露店が坂に並びました。
映画は平岸小学校のグラウンドで行われ、無声映画のため村の青年が弁士を務め、バイオリンの伴奏で盛り上げたそうです。
明治44年 幌平橋を馬車で通る皇太子時代の大正天皇(開道七十七年)

相馬神社内にある御神木


下の写真は境内にある記念碑です。前方の碑は相馬神社の創立10周年を記念して、大正6年(1917)に建立されました。後方の碑は平岸開村50年を記念して、大正9年(1920)に建立されています。
この時代の出来事として、大正7年(1918)初めて平岸村に電灯がともりました。

●リンゴの栽培
明治4年(1971)開拓使は、顧問である前アメリカ農務局長のケプロンから「寒冷地ロシアでもリンゴが栽培できる」との進言を受けて、アメリカから輸入したリンゴを札幌の官営の果樹園で栽培、明治8年(1875)から苗木を全道に無料配布しました。
開拓使顧問ケプロンその他の御雇アメリカ人たち(北海道大学附属図書館所蔵)
左からクラーク、ケプロン、アンチセル、ワーフィールド、S・エルドリッチ

平岸村に配布されたものは、明治8年(1875)から3年間で425本になりましたが、各農家の庭先に5本・10本と植えられた程度です。
しかし、明治10年代に開催された農業仮博覧会で、余市産リンゴが高値で売れたため、平岸村でも関心が高まります。
明治12年 函館第1次農業仮博覧会(北海道大学附属図書館所蔵)

明治14年 第2回札幌農業仮博覧会(北海道大学附属図書館所蔵)
大通で開催された

このような中、リンゴの将来性を見越し、明治17.8年頃に20本の苗木を植えて果樹園を始める者が現れます。明治27年(1894)頃には生産量が増えて、平岸のリンゴだけで全道生産の80%を占めるようになりました。
明治32年(1899)になると、東京をはじめ本州各都市、海外の樺太や上海まで販路が拡がり、平岸リンゴが全国で知られ、生産高も北海道が青森を上回りました。
明治44年 平岸街道(北海道大学附属図書館所蔵)
当時は街道の両側にリンゴ園や田園が約150町歩(約149万平方メートル)連なっていた

明治末期ではリンゴ生産高が青森に抜かれてしまい、道内にも青森リンゴが流通し始め、リンゴを廃園する農家が現れます。
しかし、平岸に限ると道庁・農事試験場・北大農学部など栽培技術指導機関と大消費地札幌が隣接していたことから、リンゴ園の面積は増えていきました。
札幌郊外のリンゴ園を描いた昭和初期の絵はがき(札幌市中央図書館所蔵)
昭和8年頃のリンゴの収穫(平岸郷土資料館所蔵)
昭和9年(1934)に、青森県黒石市の農事試験場に勤務したことのある北大の島善鄰教授から、肥料や薬剤など各種技術の講演がありました。
更に、翌年の昭和10年(1935)平岸の青年生産者たちが青森県弘前市のリンゴ農家を訪問し、一冬過ごして栽培方法を学習したことで、最新のリンゴ園経営農法が確立しました。
平岸の青年達による青森リンゴ視察団(札幌市公文書館所蔵)
昭和11年 陸軍月寒歩兵第25連隊兵営運動場(現月寒高校グラウンド)にて(つきさっぷ郷土資料館所蔵)
前列中央が昭和天皇

戦後の昭和20年前半には、平岸の栽培面積が更に増え、隣接する澄川を含めると約280町歩(約278万平方メートル)になったと推定されます。
見渡す限りのリンゴ園だった平岸ですが、札幌の人口増加によって昭和30年代に宅地化が進み、札幌冬季オリンピックの準備が始まる昭和40年代になると地下鉄南北線も開通し、都市化の波が押し寄せます。
昭和39年 平岸第一農事実行組合 30年のあゆみ(平岸郷土資料館所蔵)

リンゴ園が次々と減り、農家の相互扶助組織であった農事実行組合も解散する中で、かつてこの地がリンゴで栄えたことを後世に伝えるため、昭和41年(1966)天神山緑地に「平岸林檎園記念歌碑」が建立されました。
記念碑には、明治40年(1907)札幌で新聞社に勤め、後年に北海道での生活などを回想した石川啄木の歌集から、リンゴにまつわる歌が刻まれています。
石狩の都の外の
君が家
林檎の花のちりてやあらむ 啄木
平岸林檎園記念歌碑

中央の碑に刻まれた啄木の歌

昭和43年(1968)ついに平岸地区の果樹園は姿を消し、街の時代が変わるかのように、同年11月に北海道テレビ放送(HTB)が平岸高台から放送を開始したのです。
リンゴ園の廃園を惜しみ、豊平区は昭和49年(1974)豊平区役所前から国道36号まで約800メートルの環状通中央分離帯に、レッド・ゴールド52本、旭8本を植え、りんご並木としました。
豊平区美園連合町内会の美園リンゴ会などの努力で、春の開花や秋に実る赤いリンゴの美観は、札幌の名所として市民に親しまれています。
環状通中央分離帯のリンゴ並木

リンゴに関する碑としては、平岸リンゴ園跡の銘板が建てられています。この場所を、北国の生活の息吹きと開拓の労苦を伝える身近な文化遺産「さっぽろ・ふるさと文化百選」の一つとして選定したものです。
銘板では、天神山のふもとにリンゴ園が広がり、大正から昭和20年代に全盛期を向かえたことが説明されています。
平岸リンゴ園跡の銘板

もう一つリンゴの碑として、林檎園日記の碑があります。明治33年(1900)札幌市に生まれ、昭和初期から劇作・演出家として活動した久保栄が、子供の頃過ごしたリンゴ園の思い出が刻まれています。
代表作に、帯広・音更を舞台に資本の進出と科学者の悩み、農民の苦しみを描いた「火山灰地」があり、昭和15年(1940)には弾圧のため投獄された経験を持ちます。
戦後には、祖父から2代にわたる野幌のレンガ事業について書いた長編小説「のぼり窯」第1部を発表しますが、昭和33年(1958)自殺によって未完に終わりました。
林檎園日記の碑

●戦後の平岸
昭和20年(1945)8月から9月にかけて、アメリカ進駐軍の将校が札幌に入り、接収する建物を調査します。10月1日に来札した設営主任のプライヤ―大佐は、丸井デパートの屋上航空灯に登って市街を見渡すと、グランドホテル、大同生命ビルなど、主だった建物の接収を命じます。
10月5日に札幌へ駐屯が開始され、グランドホテル、北海道拓殖銀行本店、札幌逓信局を接収。定山渓の鹿の湯ホテルまで米軍休養所に指定されました。
接収される前のグランドホテル(札幌市中央図書館所蔵)

北1条通を進行する進駐軍車両(北海道新聞所蔵)

昭和22年(1947)秋、真駒内に約20万平方メートルの進駐軍基地キャンプ・クロフォードが建設されると、札幌各所に分散していたアメリカ兵が、基地内兵舎に集中します。
まだ舗装していなかった平岸街道は軍用車両の往来する時になると、砂塵と騒音のため、目も口も耳もふさがねばならない状態となります。
また、若いアメリカ兵1万人が駐屯しており、平岸にも散策や物色目的で徒歩やジープで乗り付け、若い女性は日中に外を歩くのを恐れました。
札幌を走るジープと進駐軍兵士(北海道新聞所蔵)

その反面、真っ赤な口紅と染めた髪に派手な衣装で、一人の高級将校と専属で付き合う若い日本人女性、いわゆるオンリーさんたちも現れます。
戦後少ないながら増えてきた商店や旅館に、二人で腕組みしながら訪れるGIとオンリーさん。その周りに、もの珍しそうに集まっている子供たちの口からは、クチャクチャとガムをかむ音が聞こえたそうです。
腕組みやキスといった濃厚な触れ合い、ジープの上から振りまくオンリーさんの陽気な笑い声や、こびを含んだなまめかしい声など、アメリカ人に合わせた身のこなしは、平岸の住民に大きな影響を与えました。
そうしたアメリカ文化に触れていくと、大人までもガムを噛んで歩き、銭湯で見かける混血児に驚くこともなくなり、農村でありながら札幌圏でいち早く心の中に異文化を受け入れていきました。
かつてキャンプ・クロフォードのあった陸上自衛隊真駒内駐屯地

昭和36年(1961)5月1日豊平町と札幌市が合併したことで、豊平町の地区となっていた平岸は都市へと変貌していきます。
土地区画整理事業によって道路整備が進み、商店街が誕生。昭和46年(1971)地下鉄南北線開通やトイレ水洗化よって、1階が店舗の高層ビルが相次いで建設されます。
昭和44年 平岸商店街(札幌市公文書館所蔵)
平岸2条1丁目付近
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