札幌市中央区の南東に位置し、南区と豊平区に接する山鼻地区。ここを南北に通る国道230号(石山通)に沿って屯田兵村が開かれました。今回は山鼻屯田兵入地の歴史を振り返ります。

●原生林を切り拓く

明治7年(1874)6月、明治政府は屯田兵創設の建議書を書いた開拓使次官黒田清隆を陸軍中将に任命するとともに、北海道屯田事務を総括させ屯田兵例則を設け、兵の編成や給与の制度を定めました。

翌年の明治8年(1875)琴似村に198戸965人を移住させ、第1大隊第1中隊が編成されます。続いて同年10月に、山鼻村でも兵屋240戸の建設に着手。旧函館県、宮城・青森・酒田3県から屯田兵を募ります。

更に置賜(山形)、秋田からの募集兵と、有珠郡伊達に移住していた伊達邦茂の旧家臣からも合わせて240戸1114人が、明治9年(1876)5月に完成した兵屋へその月のうちに移住し、第1大隊第2中隊が編成されました。

山鼻屯田兵屋(札幌史写真帖)
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食料が支給されるのは入地から3年間です。その後は農業で自活する必要があり、まずは兵員の全体作業で開墾を行います。

うっそうと繁る原生林の伐採や根元に広がる笹薮の除去と併せて、倒木が多く横たわっていたことから、これの撤去もしなければいけません。

小さい倒木はそのまま運び、大きいものは太い麻縄で縛り隊長の号令で引きます。巨木となると鋸(ノコ)や斧(オノ)で細分して運搬。全て一か所に集めて焼きました。

山鼻屯田兵の像(山鼻日の出公園)
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積み上げられた枯れ木に火をつけると猛烈な火勢となり3週間にわたって燃えさかり、その炎は孤独になりがちな移住者の士気を鼓舞するとともに、害虫や鳥獣を周辺から駆逐するのに役立ったのです。

原生林を切り倒し笹薮を焼き払うと、次は鋤(スキ)や鍬(クワ)を用いて畑を作ります。各兵員は共同作業や軍事教練がない日には、家族とともに農耕に従事しました。

農業中は伍長や軍曹が巡回監督し、士官も廻って励まします。兵村の最高責任者である中隊長までもが平服を着てひそかに巡察し、怠けていないか点検したほどです。

開墾(山鼻屯田記念館)
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このように軍隊制度を併せ持つ集団であることから監督は極めて厳格でした。農具を壊すと一々伍長に申告し、伍長は軍曹に通知してはじめて修理してもらいます。

また、出稼ぎは一切禁止され、1泊する時は小隊長の許可を取り、2泊する時は中隊長の許可を取る規定です。これらは、屯田兵の将来の生活基盤は農業であるとの方針からでした。

移住者は農業知識の乏しい士族です。そこで有珠郡伊達で開墾と農耕に従事した経験のある旧仙台藩の伊達邦茂の旧家臣は、屯田兵内で指導的立場を担い、皆が励まし合って作業能率を上げようと努力しました。

昭和初期 亘理領主伊達邦成とその家臣達が集団移住した伊達市(当時は町)の武者行列
(北海道大学附属図書館所蔵)
伊達町の武者⾏列2

維新の折に幕府軍に付いて領地を失った宮城仙台藩の一門は相次いで北海道を目指し、仙台藩伊達家の一門であった亘理領主伊達邦成とその家臣達は伊達へ集団移住していたのです。

●厳しい軍事教練

兵村の中央に建てられた中隊本部は週番所と呼ばれ、中隊長以下士官等武官の駐在勤務する詰所・事務所であり、兵務を指揮監督しました。

また、週番所は産業振興事業を推進する中心的役割も果たし、兵員家族の日常生活全般に関わったので、役場の機能をほとんど合わせていたと言えます。

週番所 屯田第2中隊本部(北海道大学附属図書館所蔵)
屯田第2中隊週番所(山鼻兵村) (2)
屯田兵第1大隊第2中隊給与地(山鼻屯田記念館)
中央部に週番所、練兵場、産業振興施設が置かれた
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兵員達は、平時は軍事教練を行い、有事の際には出兵することが義務付けられました。このため軍事教練は相当厳しいもので、入地後3か月から6か月間は「生兵」といって毎日訓練が課せられます。

毎日4月1日から9月30日までは午前4時起床、6時より就業、昼食後1時間休息、午後6時迄休息なしで11時間労働という過酷な内容です。

農閑期には密集訓練や射撃訓練も行います。また、春秋2期に規定された野外総合演習は、12月・1月の厳寒期に強行され、雪中で1~2週間の野営を行うなど、その軍役は生易しいものではありませんでした。

屯田兵1世(山鼻屯田記念館)
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明治11年 演武場落成式に整列した屯田兵(山鼻屯田記念館)
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●西南戦争

明治9年(1876)征韓論に敗れた西郷隆盛をめぐる薩摩藩士の動きは、明治10年(1877)入って頂点に達します。2月ついに兵を蜂起して熊本城に迫りました。

政府はこれを鎮圧できないのでは、という噂が青森県下で流れたため、開拓使は万が一のことを考えて鉄砲弾薬の売買を禁止し、琴似屯田第1中隊から1小隊を函館に派遣します。

間もなく4月に、陸軍中将兼開拓使長官である黒田清隆から、琴似第1中隊と山鼻第2中隊に対して熊本県下への出征命令が電報で届きました。

明治10年 屯田兵出兵整列(於東京)西南戦争 (北海道大学附属図書館所蔵)
屯田兵出兵整列(於東京)西南戦争

電報を受け取った翌日に、準陸軍大佐堀基及び準陸軍少佐永山武四郎が指揮する琴似と山鼻の両中隊は札幌を出発します。山鼻に入地して1年も経たない中での実戦を伴う軍役でした。

階級に「準」とあります。屯田兵は正規軍ではなく憲兵でしたので屯田武官は「準」陸軍武官の取扱いとなり、中隊の最高責任者は準大尉の中隊長1名、次が準中尉の小隊長、準少尉の分隊長8名が配属されていました。

屯田兵手帳(山鼻屯田記念館)
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中隊長準陸軍大尉の家村住義率いる山鼻第2中隊は、4月15日太平丸に乗り込んで小樽港を出発し23日熊本県に上陸。別動隊第2旅団に編入されると120日間にわたって各地を転戦します。

他諸国の鎮台兵とは異なり、士族出身であり武術に長じた屯田兵は精鋭勇敢、向かうところ敵なしの観があり、しばしば勲功をあげました。

兵卒達が猛烈に戦った理由として、戊辰戦争の時に幕府軍として薩摩の兵と激戦を交わし、遂に賊軍の汚名を受けて屈した恨みもあれば、戦死した父兄の弔い合戦でもあったためです。

射撃訓練(山鼻屯田記念館)
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対して屯田兵の幹部は薩摩藩出身者であったことから、観戦していた官軍の将校は「屯田兵の中で負傷者が下士兵卒に多く将校に少ないのは不審であるが、要するに実際に戦闘をしている者は兵卒であって将校ではない」と講評しています。

戦場においても兵卒の間で「前の西郷軍もさることながら、後ろの味方にも気を付けろ」という会話があったようです。幹部の中に西郷軍に寝返る者がいるかもしれないという危惧の念がありました。

このため中隊内では複雑微妙な関係が生じ、論功行賞に対して不満を抱き割腹する者や、軍職を投げうって去った者がいたとのことです。

西南戦争従軍屯田兵に対して金10円下賜(山鼻屯田記念館)
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琴似と山鼻からなる第1大隊は、戦争終結後8月21日鹿児島から金川丸に乗船し帰途につきます。途中神戸を経て東京に3日間滞在し、戦塵を洗い流しました。この間、9月3日には明治天皇が屯田兵を慰労し、金若干を下賜されています。

9月29日、小樽出港以来、5か月半ぶりに北海道へ戻り、秋晴れの9月30日に官民の大歓呼に迎えられて札幌に凱旋しました。

明治10年頃 西南戦争凱旋記念写真(山鼻屯田記念館)
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かくして、西南戦争は終わりました。琴似と山鼻からなる第1大隊は戦死者8名、戦病死者29名の犠牲者を出し、このうち山鼻第2中隊は戦死者1名、戦病死者15名となっています。

札幌凱旋の翌年明治11年(1878)屯田への勲功がたたえられ記念碑の建設が決定し、その翌年に現在の北大の一部を含む広大な都市公園だった偕楽園に「屯田兵招魂碑」が建立されました。

西南戦争で亡くなった山鼻屯田兵の妻に対する寡婦扶助(山鼻屯田記念館)
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明治12年 屯田兵招魂之碑(北海道大学附属図書館所蔵)
屯田兵招魂之碑  武林盛一M12

西南戦争で高鍋城が陥落した8月2日を祭日と定め、屯田兵のみならず札幌市民こぞってこの日を祝うようになります。

当時は現在の北海道神宮である札幌神社とともに札幌の二大祭日となり、官庁・学校を休んで相撲や競馬が奉納されました。

明治10年代 札幌神社祭日の街頭 (北海道大学附属図書館所蔵)
札幌神社祭日の街頭 m10年代

西南戦争から戻る途上に船中でコレラのり患者が16名発生します。そこでまずこの者達を函館の七重浜と小樽の高嶋奥の避病院へ収容しましたが、それでも凱旋後に琴似兵村と山鼻兵村両方でり患者が発生しました。

開拓使は手稲村に避病院を設け収容します。結果、り患した兵士のうち5名が亡くなったため、西郷が死して官兵を殺すものだとの噂が流れ「西郷病」と称す者もいて、大いに恐れられました。

●山鼻屯田兵と競馬

明治2年(1869)から明治3年にかけて開拓使主席判官の島義勇が札幌経営を行っていた際、開拓使本庁に牧場係がありました。

島義勇(北海道大学附属図書館所蔵)
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札幌建設に邁進し3か月で1年分の予算を使い果たし、独断専行も多かった島判官が東京へ送り返されると、明治3年(1870)有珠の虻田牧場が廃止されます。

その牧馬321頭が札幌に移され、明治5年(1872)までの間に相次いで民間に払い下げられたことで、札幌近郊に馬の飼育が普及しました。

現在の北海道神宮である札幌神社が明治3年(1870)円山に移ると、付近の村落の農民達はお祭りの日に騎馬で神社に行くようになります。参拝を終えると街道で馬の駆け比べをするのが恒例となりました。

明治5年 札幌神社(北海道大学附属図書館所蔵)
札幌神社 M5

琴似と山鼻の兵村にも農耕用に必要であるとして馬が供与され、一部は農作業に使用し他方は放牧して繁殖を図ります。

牧馬飼育は山鼻兵員の共同経営で、現在の川沿にあたる八垂別(はったりべつ)に牧場を作ります。種馬は牝のみ厩舎で飼育し、他は放牧しながら優れた牝馬は2歳になると厩舎で飼育し農作業の用に供しました。

明治6年(1873)大判官松本十郎が開拓使本庁の主任となると、馬を愛し馬術にも長じ競馬を好んでいた判官は、毎年5月の節句の休日に現在の大通で競馬を催すようになります。

開拓使大判官松本十郎(山鼻屯田記念館)
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彼は幕府側に付いた庄内藩士でしたが黒田清隆に認められて開拓使に勤めました。税制を改め学校や病院を建てるなど、常に民情に心を配った人ですが、明治9年(1876)黒田が強行した樺太アイヌの対雁移住に反対して辞任し野に下りました。

大通で競馬が開催されているという話は遠くに広まって岩内や江差からも参加者が現れるようになり、馬改良の一環として空知通北6条でも官業競馬が行われます。

この風潮に乗じて現在の北大農学部付近にあった札幌育種場で、明治11年(1878)春季競馬が開催されました。

明治11年頃 札幌育種場(北海道大学附属図書館所蔵)
札幌育種場M10頃

明治14年(1881)明治天皇巡幸の際に札幌育種場で天覧の臨時競馬を行い、明治16年(1883)の幌内鉄道開通式でも臨時競馬を行い小松宮彰仁親王が台覧すると、競馬はますます盛んになりました。

中でも山鼻屯田兵は最も熱心で、練兵場内に馬場を作り、その一隅に厩舎を設置し、更に鵡川地方にも共有牧場を設け、陸軍省から2頭の種馬を借りて馬種の改良に取り組みます。

また、兵員2名を東京の乗馬学校に派遣して馬術を学ばせて他の兵員に指導させるなど、兵村の隊員や子弟は農閑期に練兵場内で日々競馬を行うのを楽しみとしました。

明治14年 天覧競馬(エドウィン・ダン記念館所蔵)
競馬
明治11年建設の開拓使札幌育種場内競馬場の平面図(北海道大学附属図書館所蔵)
明治14年明治天皇の御野立所を図示す
育種場内競馬場図

札幌では通常の競馬と併せ、特別な催しとしてアイヌの立ち乗りや、鞍をつけない裸馬の乗馬競争が行われました。観衆は裸馬競争をとても珍しがり評判となります。

山鼻屯田兵もこれを誇りと感じるようになり、明治16年(1883)3月に陸軍中将三好重臣が来札すると、積雪の季節で場場が使用できなかったため、札幌停車場通で裸馬競馬を披露します。

大正初年 札幌停車場通(北海道大学附属図書館所蔵)
札幌停車場通りと山形屋旅館T初

他府県から貴賓が来札すると必ず臨時競馬を山鼻馬場で開催し、この裸馬競馬を観覧に供することを常とするようになりました。

こうして札幌競馬と言えば山鼻兵村が有名となり、新冠や真駒内開拓使勧業課の官馬や会員の持ち馬が多く出馬する中、名馬や騎手の出場はその多くを山鼻屯田兵村出身が占めていました。

明治10年代初め 札幌育種場人参畑(北海道大学附属図書館所蔵)
開拓使勧業課所管の人参試験園(偕楽園内)
札幌育種場人参畑 m10初

【参考文献・施設】
山鼻屯田兵
さっぽろ山鼻百年
山鼻八十一周年記念誌(復刻版)
山鼻屯田記念館
屯田資料館
札幌市公文書館
エドウィン・ダン記念館
北海道大学附属図書館