札幌市中央区の南東に位置し、南区と豊平区に接する山鼻地区。ここを南北に通る国道230号(石山通)に沿って、明治初期に人々が入植しました。今回は山鼻地区はじまりの歴史を振り返ります。

●東本願寺と山鼻

明治2年(1869)8月に34歳で第2代開拓使長官となった東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)は、太政官から20万両の予算と北海道開拓の方針10項目を受け取ります。

方針のうち第3項は石狩に本府を建設するというものでした。東久世長官は島義勇、岩村通俊、松本十郎らを率いて函館に着任し、主席判官島義勇は本府建設の大任を与えられます。

開拓使長官 東久世通禧(北海道大学附 属図書館所蔵)
開拓長官東久世通禧

島判官は札幌に本府を置くことを決めると、明治2年(1869)11月に仮移民扶助規則を設けて移民の招致優遇に務めます。

明治政府は本府建設と多くの入植者を受け入れるにあたり、函館から札幌に至る道路を開削する必要に迫られていました。しかし、幕末から維新の戦争で十分な資金がありませんでした。

このため、当時の西本願寺は京都・賀茂川への架橋等で明治政府のため膨大な資金を費やしていたことから、太政大臣三条実美は東本願寺に対しても、函館・札幌間の道路開削を打診します。

三条実美(北海道大学附属図書館所蔵)
三条実美

東本願寺では自ら願い出る形で、この要請を受け入れます。一説には幕府と良好な関係にあった東本願寺が、明治政府から佐幕派とみられていたことに危機感を抱き、この事業を願い出たとされています。

明治2年(1869)6月に東本願寺は明治政府に対して、新道の切り開き、農民の移植、併せて教化普及を要旨とする北海道開拓の出願を行いました。

許可を得た東本願寺は、明治3年(1870)2月に19歳の現如(げんにょ)上人大谷光勝が百数十人の随員を引き連れて、北海道に向けて京都を出発します。

現如(げんにょ)上人とされる肖像(北海道大学附属図書館所蔵)
本願寺現如_1

「勅書」「開拓御用本願寺東新門主」と書いた標札を掲げた一行が、道中で宿泊する度に僧や門徒が大勢押しかけ、収拾に困難を極めたといいます。

こうした経緯のもとに現如上人が来札し、山鼻に土地の下付を受けて(現在の南7条西8丁目)大谷派本願寺札幌管刹(官寺)を建立することになり、開拓使長官による「勅賜東本願寺菅刹地所」の標杭が立ったのです。

明治4年発行 東本願寺北海道開拓錦絵 札幌本府(北海道大学附属図書館所蔵)
東本願寺北海道開拓錦絵 札幌本府
真宗大谷派東本願寺札幌別院の山門にある標柱
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ちょうど越前の高田に廃寺があったことから信徒が合議の上、札幌管刹(官寺)として寄付することになり、これを解体し大工の棟梁高橋九右衛門が札幌に運んで寺院を建立したのが明治3年(1870)10月のことでした。

東本願寺による道路の切り開き、農民の移植、教化普及事業のうち、最も規模の大きかったものが新道開削です。

尾去別(現在の伊達市長流)から洞爺湖、定山渓を経由して、平岸18丁目(平岸と澄川の終点)に至るまでの約103キロメートルの道路を造成しました。

明治4年発行 東本願寺北海道開拓錦絵 北海道新道切開(明治4年発行)
北海道新道切開(北海道図絵)  立斎広重 (甘泉堂 明治4)

この道路は橋を113本架けて谷間には板敷を17か所敷設、費用18,057両(現在で約2億円)、1年4か月の工期を要し明治4年(1871)10月に完成。本願寺道路あるいは有珠新道と呼ばれ、国道230号の原形となっています。

また、現如上人が明治3年(1870)来札の際には、札幌管刹(官寺)から現在の南区川沿にあたる八垂別(はったりべつ)まで幅約1メートルの道路を造り、上山鼻に本願寺開墾地として約33ヘクタール(1ヘクタール=100m×100m)の下付を受けます。

ここに三重県桑名から農家2戸を入植させたのが、山鼻地区における農家移住の最初となりました。

大正10年 山鼻村八垂別 雪融けの朝(札幌市公文書館所蔵)
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次いで明治4年(41871)9月、開拓使は30戸余りの農家を募集し、東本願寺が新潟県から招いた移民40戸と合わせて南4条通以南の地域と推定される東本願寺周辺に「辛未一の村」建設を計画します。

この年が辛未(しんび)であり、最初に開く村であったことから「辛未一の村」とされ、移民募集とともに草ぶきの家も50戸建設しました。

真宗大谷派東本願寺札幌別院
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ところが開拓使の判官岩村通俊が大通の南側を庶民の街として位置付けたことから、遊郭の建設や将来の市街の拡大をみこして「辛未一の村」は琴似村へ移転することになります。

「辛未一の村」に入る予定だった44戸は琴似村の3か所に分かれて入植します。入植地はその戸数から八軒、十二軒、二十四軒と呼ばれました。

●山鼻村の誕生

札幌に本府を置くことを決めた主席判官の島義勇は、札幌建設に情熱を燃やして事業に邁進すると3か月で1年分の予算を使い果たします。

また、独断専行が多いこともあって開拓使長官の東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)と意見が対立し、北海道着任の翌年明治3年(1870)島判官は東京へ送り返されてしまいました。

島義勇(北海道大学附属図書館所蔵)
島義勇-1

佐賀藩士だった島義勇はこれまで明治政府の重職を担ってきました。彼は東京へ戻った後に明治7年(1874)太政大臣三条実美の命を受け、佐賀の不平士族を鎮撫するため地元に向かいます。

ところが「佐賀の乱」の首謀者の一人となってしまい江藤新平とともに処刑され、さらし首となり54歳の生涯を閉じました。

判官時代の島義勇は、北海道神宮の裏山に登って石狩平野を見下ろし、開拓三神を祀る社地を決めたといわれ、その時の様子を表した銅像が北海道神宮に建立されています。

北海道神宮から札幌を見つめる島義勇像
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札幌から島義勇が去ると、本府建設の事業は一時とん挫して札幌大不景気の時代に入ります。開拓使は仕事に就くことができない者には扶助を与えて、付近の農村で開墾にあたらせることにしました。

上山鼻、下山鼻、伏見、鴨々川沿いに数戸ずつ移住し、明治7年(1874)山鼻村が置かれます。山鼻の名前の由来は、藻岩山の麓に位置することから山瑞と呼んでいたものが、山鼻へと当て字されたと考えられています。

藻岩山中腹から札幌を望む
藻岩山中腹の塔

当時の山鼻村は現在の山鼻地区より広く、国道230号の石山通を中心として左右へ移住した農家を総称したもので、その数は10戸でした。

明治8年(1875)、更に5戸が移住しますが、屯田兵の入植があるまでは村としての実態は成していませんでした。

●山鼻屯田兵村

明治7年(1874)6月明治政府は、屯田兵創設の建議書を書いた開拓使次官黒田清隆を陸軍中将に任命するとともに、北海道屯田事務を総括させ屯田兵例則を設け、兵の編成や給与の制度を定めます。

開拓使次官時代の黒田清隆(北海道大学附属図書館所蔵)
開拓次官黒田清隆

翌年の明治8年(1875)5月には、琴似村に兵屋200戸を完成させ、旧函館県、宮城・青森・酒田3県の士族から屯田兵を募り、198戸965人を移住させ第1大隊第1中隊としました。

琴似屯田兵屋(琴似神社境内)
北海道指定有形文化財 昭和39年10月3日指定
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続いて同年10月山鼻村でも兵屋240戸の建設に着手。琴似の屯田兵を募集した地域と同じ旧函館県、宮城・青森・酒田3県から屯田兵を募ります。

更に置賜(山形)、秋田からの募集兵と、有珠郡伊達に移住していた伊達邦茂の旧家臣からも合わせて240戸1114人が、明治9年(1876)5月に完成した兵屋へその月のうちに移住し、第1大隊第2中隊が編成されました。

これが琴似に続く北海道に二つ目にできた屯田兵村で、山鼻兵村の始まりとなり、第1中隊琴似兵村と第2中隊山鼻兵村は札幌本府に最も近く緊密な連絡関係を築きました。

札幌圏の屯田兵村(屯田資料館所蔵)
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山鼻兵村の兵屋240戸は、その中央を南北に通る国道230号(石山通)を挟み東屯田と西屯田に分けられました。東西にそれぞれ120戸が配置され、120戸は道路を挟んで60戸が向かい合わせに建てられていました。

東屯田の兵屋は南8条から南23条までの間の西8丁目と9丁目にあり、西屯田の兵屋は南6条から南21条までの間の西12丁目と13丁目にありました。

給与された宅地の間口は約36メートル、奥行きは約18メートルあり、その奥に開墾すべき給与地が広がっていたのです。

山鼻屯田兵割符(山鼻屯田記念館)
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明治9年 山鼻屯田兵屋の配列(札幌市公文書館所蔵)
現在の南15条以南 西8丁目から
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屯田兵とその家族は、出発に先立ち予備知識として事前に入植地札幌の現状を知らされていました。

実際にたどり着くと、うっそうと繁る原生林、巨木の根元に広がる笹薮、遠くに聞こえる野獣の遠吠え、群れをなして歩く鹿の大群。

想像を超える厳しさと原始の姿に、腰を抜かした者、立っていることができずにうずくまってしまった者、中には頭がおかしくなった者もいたと記録されています。

西岡水源地原生林
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当時の人達は今の我々が想像するより小柄で、男性の平均身長154センチ、女性の平均身長145センチ、江戸末期に度々起こった大飢饉から粗食となっており、東北地方は特に痩身者が大部分を占めていました。

しかし、元士族たちの根性と精神力はたくましいもので、ぼう然と見つめていたのはほんの少しの間です。すぐさま心を新たにして立ち上がり、自分たちの使命を思い勇気を奮い起こします。

明治10年(1877)から札幌農学校で学んだ新渡戸稲造は後年、著書「武士道」で「初期の屯田兵の開拓は、侍精神、武士道でやりとげた。これは封建社会の倫理にほかならない」と記述しています。

屯田兵第1大隊第2中隊給与地(山鼻屯田記念館)
図の左右を国道230号が通る
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兵村の給与地の中には共有地もあり、南13条と南14には中隊本部、練兵場、競馬場、蚕室、製糸場、その他共同作業場が置かれます。

移住後の約1週間は各自の炊事の設備が整わないため、南14条西9丁目付近で賄いを受けます。皆容器を持って集まり配給を受けました。

家の中を整えるといよいよ自炊です。井戸は家の後ろに4戸に一つの割合で作られ共同で使います。風呂も共同で使い当番制で沸かしました。

共同井戸と風呂(山鼻屯田記念館)
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1戸に対して鍋は大・中・小の1組が支給され、お椀は大・中・小の1組が3組支給されています。

食料は扶助年限3年の間に限り、15歳以上で玄米が1日あたり7合支給され、おかず代として塩菜料が1か月あたり50銭支給されました。医薬料も扶助期間中は官費とされ自己負担はありません。

寝具や農機具等も支給され、他に必要な物があれば、事前に支度料が15歳以上1人あたり2円、15歳未満1人あたり1円が支給されており、このなかから購入しました。

炊事場(山鼻屯田記念館)
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畑を作るために、まず兵員の全体作業で大木を切り倒し、笹薮を切り開いてこれを焼き、その後に家族が鋤(すき)や鍬(くわ)で土地を耕します。

男たち兵員は毎朝ラッパとともに起き、銃剣を付けて軍事教練に出かけたり共同作業に従事するため、休みの日以外は家族が畑仕事を担いました。

教練(山鼻屯田記念館)
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このように女性の力があってこその開拓です。記録によると、屯田兵の中には農耕を放棄して博打にのめりこんだ者や、自分は侍だと言って武術の稽古ばかりに打ち込んだ者など、様々な人間がいたようです。

しかし、そんな家長(亭主)であっても、家族として老父や老母、幼い子供達と力を合わせ、ただ黙々と開墾に頑張ったのが女性でした。

山鼻開村50年記念時に屯田兵の妻に送られた感謝状(山鼻屯田記念館)
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【参考文献・施設】
札幌百年のあゆみ
札幌歴史何でも発見
新札幌史
山鼻屯田兵
さっぽろ山鼻百年
山鼻八十一周年記念誌(復刻版)
山鼻屯田記念館
屯田資料館
札幌市公文書館
北海道大学附属図書館