札幌市の東部に位置する白石区。仙台藩の支藩である白石藩片倉家の家臣達が入植した白石村。ここから菊水地区に移り住んだ人達によって上白石村が開かれました。

●小学校

隣の白石村には明治5年(1872)から寺子屋が置かれましたが、上白石村からは距離があり、通える子供は限られていました。

このため小学校の就学率が上がるのは、明治33年(1900)6月に、修行年限4年の上白石尋常小学校が設立されるまで待つことになります。

大正10年頃 上白石尋常小学校(白石村誌)
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昭和13年(1938)には学級数は10に増え、児童数も男255人、女275人、合計530人になります。

昭和15年(1940)当時の校舎は1,207平方メートル余り、屋内運動場306平方メートル、野外運動場2,752平方メートル、敷地は3,960平方メートルありました。

●有島武郎

日本近代文学史上の代表的作家の一人に有島武郎(ありしまたけお)がいます。彼は明治43年(1910)から3年ほど上白石村に住んでいました。

東京小石川水道町に関税局小書記官であった有島武の長男として明治11年(1878)に生まれ、父の望みで学習院中等科に進学し、皇太子の学友に選ばれるほど恵まれた家庭でした。

明治35年 24歳の有島武郎(北海道大学附属図書館所蔵)
有島武郎24歳

しかし、親とは異なる生き方を望んだ武郎は、明治29年(1896)18歳で札幌農学校予科に編入学し、母方の叔父である新渡戸稲造教授宅に寄宿します。

新渡戸稲造夫妻により設立され、札幌農学校の学生が教える貧しい子供たちのための夜学校「札幌遠友夜学校」で無給の講師を務めたことから社会問題にめざめます。

明治37年 札幌遠友夜学校第6回卒業生と教師たち(北海道大学附属図書館所蔵)
遠友夜学校

明治34年(1901)札幌農学校を卒業する時「我が真生命の生まれし故郷は札幌なりし」と記したように、青年有島に大きな影響を与えた札幌生活でした。

その後、アメリカに留学し旧札幌農学校である東北帝国大学農学科の講師となって英語、倫理、社会問題、文学史などを教えます。

明治34年 有島武郎のクラス 札幌農学校第19期生卒業記念(北海道大学附属図書館所蔵)
有島武郎のクラス

妻安子と結婚した翌年の明治43年(1910)、今の菊水1条1丁目である上白石村2番地の借家に移り住み、雑誌「白樺」に「或る女のグリムプス」の連載を始めます。

当時の住宅は豊平川右岸に位置し、リンゴ園の中に建っていました。その後、住宅は昭和49年(1974)に解体・収集され、北海道開拓の村で復元されています。

旧有島家住宅(北海道開拓の村)
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明治45年 札幌にて撮影した有島武郎夫婦と長男(北海道開拓の村所蔵)
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新婚生活を送ったこの頃、思想的な問題から警察に監視され、本格的に文学の道に傾斜するようになりました。

そのような中、幸せな生活は長くは続かず、大正5年(1916)妻安子を肺結核で亡くします。翌年大学を退職、東京で文学に打ち込み、次々に小説を発表しました。

大正11年(1922)には、亡き父が武郎の将来のために買った狩太(今のニセコ町)の有島農場を小作人に無償で解放します。

若いころから社会問題に関心を持っていたため小作人からの収奪を嫌っており、父の死を機会に農場経営をやめたのです。

翌年、人妻の波多野秋子と軽井沢の別荘で自殺し46歳の生涯を閉じました。

菊水の有島武郎邸跡地 盛り上がった土手の先が豊平川
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●白石遊郭

明治4年(1871)開拓使は札幌本府建設のため、全国から1万人もの請負人、大工、職工、人夫などを集めます。多くの男達が札幌に滞在したので、これを目当てに料理店や遊女屋が増加しました。

また、開拓使の岩村通俊判官は開拓労務者の足止め策として開拓使直営の薄野遊郭「東京楼」を設立し、遊郭を一か所にまとめ、民営が相次いで開業したことで妓楼(ぎろう)30軒、娼妓(しょうぎ)は300人にもなります。

経営者は東北出身者が多く、娼妓に東北の貧しい農漁村出身者が多いのは地元から連れて来たからでした。

開拓使が設置した薄野遊郭(北海道開拓の村所蔵)
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明治5年 土塀で囲まれた薄野遊郭街(北海道大学附属図書館所蔵)

西北ノ間ヨリ見通シ薄野裏ノ景 _ スチルフリート(横浜)

薄野遊郭は明治後期になると都心の一部となっており、移転を求める声が高まりました。札幌区では移転先を周辺の村で募集し、区への編入を条件とします。

区への編入を希望する山鼻、豊平、苗穂が名乗りを上げ、白石でも当時一帯のリンゴ園が病害虫の発生で壊滅状態にあったため、10人のリンゴ園主は遊郭の誘致に動きます。

この結果、大正6年(1917)上白石村への遊郭移転が決定し、村の一部が分割され札幌区に編入されました。

大正9年 建設中の白石遊郭(北海タイムス)
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遊郭は大正8年(1919)から9年にかけて薄野から移転し、今の菊水2条から5条の1丁目と2丁目の間の道路を挟んだ両側に妓楼が並びます。建物の1階には楼主居室、食堂、女中部屋、洗濯室、2階は娼妓個室などが設けられていました。

薄野にあった33軒中31件(札幌史では27件)が移転し、周辺の地価は急騰、リンゴ農園は市街地へと変貌を遂げます。

昭和52年 当時残っていた白石遊郭の建物(札幌市公文書館所蔵)
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昭和52年 白石遊郭内部(札幌市公文書館所蔵)
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遊廓は、登楼してくる遊客があって初めて成り立つ接客業です。それも女性の人権をもっとも踏みにじった公娼制度によって公認されていた稼業でしたが、開道五十年記念北海道博覧会開催年である大正7年(1918)の遊客数は20万人以上にのぼりました。

博覧会は、第一次世界大戦の好景気の時期に開催されます。しかし、大正9年(1920)の春頃から不景気の波が押し寄せ、長い不況の時代を迎えることになります。

開道五十年記念北海道博覧会正門(北海道大学附属図書館所蔵)
開道50年
大正7年 札幌芸妓による演芸(開道五十年記念北海道博覧会写真帖)
札幌芸妓による演芸 開道五十年記念北海道博覧会写真帖-2

不況期にあった大正11年末(1922)、白石遊廓の娼妓は276人おり、当時の新聞北海タイムスによれば、この娼妓1人のおおよその前借金は980円であり、1年の稼ぎ高は410円という相場で、2~3年で前借金を返済するつもりで毎年100人以上が新たに娼妓になったという、憂慮すべき事態でした。

同じく北海タイムスの記事によれば、札幌市山鼻に住む21歳の女性が、家庭の事情から大正12年(1923)江別の遊廓に娼妓として売られますが、稼業中妊娠したため自由廃業を営業主に申し出たが応じられず、悲嘆のあまり大正14年(1925)豊平川に投身自殺しようとしたところをビール会社の守衛に助けられたことが報じられています。

菊水へ遊郭の移転が終了した翌年の大正10年(1921)この街の氏神様にと、現在の中央区南5条西8丁目にあった神社が菊水5条2丁目へ遷宮され、菊水稲荷神社となります。

菊水稲荷神社
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白石遊郭が建設された際、薄野から北海道庁白石治療院が移転し、警察署長が病院長となって毎週1回性病の検査を行っていました。

女性たちは月に1度治療院に通う習わしがあり、治療院の行き帰りに菊水稲荷神社へ立ち寄って熱心に手を合わせる姿が見られたといいます。

昭和2年 札幌白石遊郭(新札幌史)
札幌白石遊廓 札幌住宅地図(昭2)より作成 新札幌史

昭和26年(1951)に札幌市が風俗取締条例を制定し、進駐軍の撤退も影響し廃業する妓楼が相次ぎ、昭和33(1958)の売春防止法完全施行で、遊郭は姿を消しました。

故郷を離れ様々な事情を抱えて白石遊郭で働いた女性達。その祈りを聞いてきた菊水稲荷神社は、今は訪れる人もなく菊水公園内の一角に、静かにたたずんでいます。

●ゴム工場

豊平、白石では大正から昭和にかけてゴム工場がありました。ゴム長靴がヒット商品となった北都ゴム工業所(南5西5)は、大正14年(1925)菊水1条3丁目に新工場を建設します。

更に菊水には、昭和7年(1932)北門ゴム工業所が工場を建設し、昭和19年(1944)になると、買収した工場で日本ゴム工業が操業します。

その後、日本ゴム工業は昭和23年(1948)に、野球場やテニスコートを備えた敷地面積2万2千坪の新工場を菊水3条5丁目に建設します。

昭和50年代(左)と昭和20年代(右) 菊水3条5丁目の日本ゴム工場(国土地理院)
昭和20年代の工場敷地内に野球場が見える
日本ゴム新旧

日本ゴム工業に勤務した女工の回想によると、工場には300人以上もの工員がおり、鉄の作業板の前に、朝座ると帰るまで同じ場所でハサミと包丁と手ミシン等の作業道具を並べ、型の状態から出来上がるまで全ての作業を1人で行ったということです。

製品はゴム長靴、炭鉱地下足袋、深靴、浅靴、学童布靴などで、ゴム長靴は道内需要を充たしたことはもちろん、道外へも移出されました。

都市化が進むと、工場群は市が造成した発寒工業団地等へ移転し、低廉な外国資材の輸入で、今となっては菊水にゴム工場の面影はありません。

【参考文献・施設】
新札幌史
白石発展百年史
白石物語
白石歴しるべ
北海タイムス
札幌市公文書館
北海道大学附属図書館
北海道開拓の村