札幌市の東部に位置する白石区白石。土地を切り拓いたのは自ら志願して移住した仙台藩の支藩である白石藩片倉家の家臣達でした。今回は郷里の名が村名になった歴史を振り返ります。

●仙台藩一門の苦悩

明治元年(1868)戊辰戦争で明治政府と対峙し敗れた仙台藩は多くの領地を失います。仙台藩一門の一つであった白石藩は領地を全て明治政府に召し上げられてしまいます。

なんとか士籍をはく奪されずに衣食住を得る方法はないものかと旧藩主片倉邦憲は家臣たちと協議します。明治政府が計画していた北海道移民政策を聞きつけ、開拓しながら武士として北方の守りにあたりたいと県に申し出ると了承されました。

現在の登別である幌別の開拓を命じられて、移民団は明治3年(1870)に入植。自費で渡航するよう指示され、十分な資金が工面できず餓死者が出かねない状況でした。

片倉小十郎幌別支配御沙汰書写(札幌市中央図書館所蔵)
明治政府から幌別(登別)の開拓を命じられたもの。「自費をもって」の記載がある。
片倉小十郎幌別支配御沙汰書写
片倉小十郎幌別支配御沙汰書写2

この当時、領地を失った仙台藩の一門は相次いで北海道を目指しています。亘理領主伊達邦成とその家臣達は伊達市へ集団移住します。

水沢領主の伊達邦寧(くにやす)通称将一朗の家臣団は、移民募集に応じた近隣の農民と共に49名で明治4年(1871)豊平区平岸に入植しています。

昭和初期 仙台藩一門亘理領主伊達邦成とその家臣達が集団移住した伊達市(当時は町)の武者行列 
(北海道大学附属図書館所蔵)
伊達町の武者⾏列

登別の次に北海道を目指した旧白石藩の移民団は、当面の間石狩に滞在するよう指示され、明治4年(1871)に咸臨丸で北海道を目指します。この船は、江戸時代は旧幕府軍の軍艦で、明治になると開拓使の輸送船となっていました。

旧白石藩の家臣とその家族約600人が石狩で与えられた仮住まいは、半ば壊れた破れ家でした。当時石狩はは西の海岸で最も栄えていた漁場で、誰も住まない傷んだ漁師の家や納屋が多くあったのです。

木古内町サラキ岬にある咸臨丸の姿を模した約1/5のモニュメント
(写真提供/函館市公式観光情報サイト「はこぶら」)
咸臨丸 クレジット要す

石狩に来た一団の責任者として明治政府から「取締」に命じられていたのは、22歳の若き旧家老である佐藤孝郷です。

自費で登別へ移った移民団を見ていた彼は、白石を管轄していた白石県や角田県の役人へ旧家臣の窮状を訴え、北海道への開拓移住について支援を願い出ます。

交渉の結果、一団の藩士達は開拓使に所属して武士の身分のまま北海道を開拓する「北海道開拓使貫属(かんぞく)」という身分となり、移住にあたっては公費も支給される待遇を得たことで、石狩へ来ることができたのです。

晩年の佐藤孝郷(白石村誌)
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一時的な滞在地としての石狩に着いて2週間が過ぎたころ、移民団取締の佐藤は、開拓使札幌本庁から今後のことについて呼び出しを受けました。

●開墾地決まる

明治4年(1871)秋も深まる10月28日、札幌本庁に出頭した佐藤孝郷は開拓使判官の岩村通俊に面会します。

この頃30歳を過ぎたばかりの岩村判官は、幕末に土佐勤王派として活躍した人物です。明治19年(1886)には初代北海道庁長官に就き、その後貴族院議員にもなっています。北海道を愛し、長男は浦臼を開拓、娘は蝦夷子、北子と名付けています。

明治19年頃の岩村通俊(北海道大学附属図書館所蔵)
岩村通俊

若いながらも一団をまとめて渡道した佐藤に対して、岩村判官はねぎらいの言葉をかけます。しかし、思いもよらない話をします。

「君たち貫属のことは、何も聞いていない」これを聞いた佐藤は、血の気が引き背中に冷たい汗が流れました。

事のいきさつは、佐藤たちの移住について、角田県の役人と東京の開拓使本庁で決定してしまい、札幌本庁には話を通しておらず、東京にいた薄井竜之開拓使監事の独断によるものだったのです。

薄井竜之は長野県の富商の家に生まれ、尊王攘夷に傾注し捕縛され脱獄の後水戸天狗党の参謀になった人です。開拓使勤務時代は営繕担当として「薄野遊郭」を造成し、岩村判官が薄井の一字をとって薄野と命名しています。

薄野遊郭(北海道開拓の村所蔵所蔵)
薄野IMG_3269開拓の村-1
明治5年 土塀で囲まれた薄野遊郭街(北海道大学附属図書館所蔵)
西北ノ間ヨリ見通シ薄野裏ノ景 _ スチルフリート(横浜)

「君たちのことは聞いていない」という言葉に凍りついた佐藤に対して、岩村判官は話を続けます。「しかし、君たちをうとんじたり、排斥しようとするものではない」

更に、「これから積雪の季節で開墾には向かないし、本州の士族に初めての冬は耐えられないだろうから、雪解けまで石狩で黙って暮らしていると良い」と提案されます。

馬鹿にされたような、厄介者扱いされたような口ぶりと感じた佐藤でしたが、議論は避けて「皆と相談します」と回答し、これまでの援助に礼を言って札幌本庁を後にしました。

明治4年 開拓使札幌本庁仮庁舎と官員たち(北海道大学附属図書館所蔵)
開拓使札幌本庁仮庁舎と官員たち

石狩に帰る前に札幌を見物したことを、郷里に送った手紙にこう書いています。

「開拓の規模の広大なこと、まことにもって目を驚かすばかり。人家は官邸、商家、民家合わせて千軒以上も建築中。来春は、全道の力を合わせて、札幌、小樽、石狩の三郡で一万戸くらいも建築することに決まっております」

「都合によっては、来春はアメリカ人を雇って、いっそう盛大に開拓に取りかかることになっておりますので、北海道はいよいよ繫栄することと思います」

明治4年 札幌仮役所物見ヨリ西ヲ見ル(北海道大学附属図書館所蔵)
開拓使仮庁舎(北4条東1丁目)の屋上から見た建設中の札幌市街
札幌仮役所物見ヨリ西ヲ見ル

石狩に戻る道中、佐藤は考えました。このまま春まで石狩で過ごすようなことになれば、苦しい生活の中で開拓の決意が失われていくのではないか。

貫属の成年男子を集めて岩村判官との話を報告し、すぐにでも札幌に土地を決めてもらい開墾に取り組もうと訴えます。「風雨や寒さにくじけないのは北海道に移住しようと決めた時から覚悟の上だ」

たちまち意見はまとまり、佐藤は再び岩村判官に合ってこの話を伝えると「そうか、それは見上げた心意気である。好きな場所を選ぶがよい」と快く了承されます。

佐藤達はさっそく土地の選定に取りかかります。中央区山鼻に行きましたが、地味の悪い土地に生えると言われていた柏の木が密集していたことからここは避け、次に豊平区月寒公園周辺の丘に登ってみました。

月寒公園
月寒公園

遠くを眺めてみると北に向かって広く林が広がっています。また、月寒川やいくつもの清らかな小川が流れており、近くには平岸村や月寒村があります。

「あの雑木林一帯を開墾しよう」一同は決めました。最月寒(もつきさっぷ)と呼ばれていた今の白石です。開拓使に対して地所割渡しの願い出をすると、簡単に許可されました。

こうして、佐藤が岩村判官に初めて会った日から1か月も経たないうち、開墾地が決まったのです。

明治40年 最新札幌市街図(札幌市中央図書館所蔵)
最新札幌市街図 (2)

●白石村の誕生
 

明治4年(18711115日石狩から先発隊として女性を含む67人が月寒にやって来ました。月寒公園周辺には札幌開拓の製材人や東本願寺建設に従事する人たちの官営小屋があり、一行は仮住まいとしてここに入ります。

開拓使から小屋掛け料や米などの援助を受けて住宅建設に取りかかります。仮住まいから開墾地まで片道2キロ以上あり、雪道の往復が大変で開拓地所の変更を願い出たほどでした。

地所変更願いは聞き届けられず、ともかくもどんな小屋でもいいから自分達の家がほしい一心で、開拓使から支給されたノコ、マサカリ、山刀など最低限の道具を使って小屋掛けを行います。

明治44年 移住移民小屋掛之光景(北海道大学附属図書館所蔵)

小屋掛

一刻も早く多くの家を建て、石狩で待っている仲間を呼び寄せたい。このため小屋掛けは凍土の上に雑木の柱を立て、壁や屋根はカヤで覆う簡易な造りにします。

このため大量のカヤが必要となり、その辺りに自生するものでは到底足りません。1戸建築に900束が必要であったため、開拓使に37,000束借用することになりました。

借り受ける場所が今の北大にあり、そこに行くには最月寒川に沿って南下し月寒へ出て豊平川を渡り、現在の創成川沿いに石狩街道を北上、更に折れ曲がって西へ進むといったもので、U字型に大きく迂回するしか輸送方法しかありませんでした。

明治5年 創成川東から南西に向かって札幌を撮影(北海道大学附属図書館所蔵)
創成川

先発隊67人の働きぶりは噂になって岩村判官の耳に届きます。気にかけていた岩村判官は、開墾着手の10日後に現地を視察すると、予想を超えて仕事がはかどっていることに驚きます。

「内地の士族には無理なことと思っていたが、これには恐れ入った。他の移住民の模範である。今後この地を君たちの郷里白石をとって白石村とするが良い」

一同は飛び上がるほどに喜び、後日このことを聞いた石狩で待つ仲間も手を取り合って喜びました。開拓使から借りた37,000束のカヤは返さずに済みました。

●小屋掛け完成す

明治4年(1871)12月7日、1か月も経たないうちに47戸の小屋が完成します。雑木の柱にカヤ葺き屋根、壁もカヤで覆い床は板を敷き、入口にはムシロを垂らしただけのものですが、家族が水入らずで過ごせる立派な家です。

明治末 新移住民小屋及耕作之景(北海道大学附属図書館所蔵)
新移住民小屋及耕作之景

さっそく先発隊67人は月寒の官営小屋から引っ越します。毎日小屋作りに通った2キロを超える道のりは、行きは寒く、帰りは疲労で遠く感じましたが、今日ばかりは足取り軽く、歩く速さもおのずと増しました。

口々に故郷の祝い唄である「さんさんしぐれ」を歌いながら、荷物を背負って小屋を目指します。「これで石狩の仲間を呼び寄せることができる。みんな喜ぶだろうな」そう思うと、これまでの重労働の疲れが癒されました。

「小屋掛け完了す」の知らせが石狩に届くと、年内移住組47戸の第1陣135人が12月14日石狩を出発、翌日第2陣70人が続きます。

真冬に重い荷物を背負って48キロの行程を歩きました。石狩川は凍っており、広い道だと思って歩いて渡った後に川だと知らされ驚いたと言います。佐藤は老人や幼子のためにと、開拓使へ頼んで札幌での道中に馬を用意しました。

昭和44年 輸送中の道産子(北海道大学附属図書館所蔵)
道産子

白石の小屋割が決まるまでの間、月寒の官営小屋に泊まりました。石狩の破れ家では、寒くて不安でみじめな生活を送っていましたが、官営小屋に着くと暖かい火や熱いおかゆ用意されており「これで旅は終わりだ」と、誰しも安堵で胸まで熱くなるのでした。

【参考文献・施設】
新札幌史
白石村誌
白石発展百年史
白石ものがたり
函館市公式観光情報サイト「はこぶら」
札幌市中央図書館
北海道大学附属図書館