札幌市の東部に位置する白石区。土地を切り拓いたのは自ら志願して移住した仙台藩の支藩である白石藩片倉家の家臣達でした。今回は渡道に至る迄の苦難に満ちた道のりを振り返ります。

●白石藩と蝦夷地

仙台伊達藩の支藩の一つに白石藩がありました。慶長7年(1602)伊達政宗から1万3千石を拝領し、現在の宮城県白石市にある白石城主となった片倉家が始まりです。

伊達藩63万石の版籍には、一門、一家、準一家、一族、宿老、着座、その他があり、一門は最も高い地位で片倉家はその一門に属し、代々奉行職や江戸詰めの要職に就きました。

伊達政宗 胸像
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明治元年(1868)戊辰戦争で明治政府と対峙し敗れた仙台藩は、領地の多くを失います。片倉家も白石城地と領分、藩士の邸地など、全ての不動産を明治政府に召し上げられてしまいます。

白石は片倉家の支配を離れ、白石藩の家中1,406人家族を含めると7,459人が路頭に迷うことになりました。

平成7年復元された白石城
白石城三階櫓 H7復元

これより以前、幕府では蝦夷地の開拓を行っており、仙台藩は蝦夷奉行を務めていた松前藩と親類の間柄で、仙台藩士も蝦夷奉行の仕事に参画し、蝦夷地開拓の意見を表した書物をいくつも出版します。

また、幕命によって東北の各藩が蝦夷地を開拓し、仙台藩も厚岸と白老に陣屋を置いていたことから、世間には松前藩に次いで仙台藩が、最も蝦夷地の事情に明るいものと思われていました。


諸藩蝦夷地警備図(北海道大学附属図書館所蔵)
安政初年の蝦夷地における東北諸藩の元陣屋、出張陣屋の配置を記した略図
[諸藩蝦夷地警備図]

領地を失った白石藩では、なんとか士籍をはく奪されずに衣食住を得る方法はないものかと、明治2年(1869)家臣を東京に送り調査させます。

ちょうどこの時、明治政府ではロシアに対して外交や国防上の必要性から、また不作や飢饉で疲弊した奥羽や北陸の農民を救済する目的で北海道に移民を送り開拓を行う準備を進めていました。

開拓使長官には鍋島直正が就き、判官に任命された蝦夷地探検家の松浦武四郎が、蝦夷地を北海道と改名し11国86郡に分けます。

明治10年代 松浦武四郎(北海道大学附属図書館所蔵)
明治10年代 松浦武四郎

東京で北海道開拓の情報を得た家臣達は直ちに白石へ帰り、旧藩主の片倉邦憲へ報告します。そして「縁のある蝦夷地へ移住し原野を切り拓き、外国との戦になれば武士として身をもって国に殉じましょう」と訴えました。

先祖代々の墓がある土地を捨て去る決心のつかない片倉邦憲は、広く旧藩士と相談します。何度か協議を続けるうち「士分の身分を失わないのであれば蝦夷地へ」という者が多数を占めるようになります。

初代開拓使長官 鍋島直正(北海道大学附属図書館所蔵)
鍋島直正

旧藩士達は遂に決意を固めます。上京して北海道開拓の情報を得てきた家臣は、白石按察府という県庁にあたる役所へ嘆願書を書きます。

「蝦夷地の何処かに土地を払い下げくださり開拓を仰せつけください。大義を誤った罪の万分の一でも償い武士の道を全うします」という哀願状に近いものでした。

片倉邦憲は明治政府に呼び出され「北海道開拓は急務であるから、まずお前らが難儀にめげず自費で渡道し必ず開拓の実績を上げよ」と、胆振国幌別郡(登別)の支配を命じられました。

明治末 登別温泉場ノ景(北海道大学附属図書館所蔵
明治末 登別温泉の景

自費移住に必要な金はなく、3,000両の貸付を白石按察府に願い出ますが取り合ってもらえません。やむなく可能な資金を工面し、明治3年(1870)旧白石藩の半数にあたる約600戸3,600人程が登別へ移ります。

餓死者の出そうな、あまりの窮状を見かねた白石按察府では、移住した旧藩士たちが懸命に開墾しているということで白石城の解体売却代金150両を開墾費用として与えました。

●石狩へ

旧白石藩の家老職にあった22歳の若き佐藤孝郷も明治3年(1870)渡道し、気候風土と実際の開拓状況を視察します。そして政府に対して自費で移住することの大変さを訴えます。渡航費だけではなく、日用品から農機具まで揃える資金、更に収穫までの生活費が必要でした。

願いが聞き入れられ、白石に残っていた片倉邦憲と家臣約600人は、開拓使に所属して武士の身分のまま北海道を開拓するという「北海道開拓使貫属(かんぞく)」に命じられます。

晩年の佐藤孝郷(白石村誌)
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士族の身分が保証され、更にいくらかの公費も支給されることになり家臣たちは安堵します。しかし当時の白石を管轄する角田県の役人からの手紙には「北海道へ向かう船にはお上のお役人方も乗るので失礼のないように。お情けのほどを深く身に感じて・・・」といった内容で、戦いに勝った者の態度でした。

佐藤孝郷は若くして移民団の取締という責任者に任命されます。移民団は2班に分かれ、まずは1班398人が明治4年(1871)9月住み慣れた白石の地を出発しました。

1班は宮城県の寒川港から出港します。乗り込んだ咸臨(かんりん)丸は3本マストで帆と蒸気機関を備え、長さ50メートル幅7メートル100馬力、当時としては抜群の性能です。

幕府軍艦隊だった時の咸臨丸(左から3隻目)
咸臨丸

咸臨丸は江戸幕府が安政4年(1857)にオランダから購入したもので、万延元年(1860)勝海舟が乗り太平洋を横断しアメリカに渡ったことのある船です。

日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府使節団がアメリカ政府の提供した軍艦ポーハタン号でワシントンを目指した際に、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎等が乗船した咸臨丸も、護衛と遠洋実習を兼ねてポーハタン号に随伴しました。

勝海舟
勝海舟

咸臨丸は戊辰戦争でも幕府の軍艦として参加し、明治になると大蔵省の所管になり、明治2年(1869)8月には北海道開拓使に移管され物資の運搬船として活躍していました。

角田県役所からの旧白石藩への布告書には船内での規則も記されており「船中の食事は多人数ゆえ、いっぺんには食べられないので、食事場所を決め係の役人の許可を得てから、人数を決め順々にちょうだいしなさい」などとあり、登別行きを命じた時とは違い、細々といかにも役所の指示らしくなっていました。

船は津軽海峡に差しかかると暴風雨に合い、太平洋に流され6日間も漂流の末なんとか函館に入ります。そこで激しい揺れで怪我をした人達の手当や、つかの間の休息を取ると次に小樽を目指しました。

明治10年頃 函館港全景(北海道大学附属図書館所蔵)
明治10年頃 函館港全景

波がおさまるのを待ち薄暗くなってからの出航でした。日が暮れて暗闇を進む中、突然衝撃を受けて船が傾き海水が船内に流れ込みます。

「船が沈む!」乗客は大混乱に陥ります。闇夜の海中に飛び込んでも助かる可能性はなく「もうこれまで」と観念しましたが、船は一向に沈む気配がなく木古内の陸地に近い浅瀬で座礁していたのでした。

日が明けると浜の人達が小舟で助けてくれました。荷物は水浸しになりましたが全て回収することができ、一行は歩いて函館に戻ります。咸臨丸はシケのため破船し海中に沈み、前途多難の行程に皆の胸には暗いものが立ち込めるのでした。

木古内町サラキ岬にある咸臨丸の姿を模した約1/5のモニュメント
(写真提供/函館市公式観光情報サイト「はこぶら」)
咸臨丸 クレジット要す

函館に戻り着いた一行は、寒風沢港から遅れて庚午丸に乗ってきた第2班206人と合流します。第1班にとっては懐かしく心強い再開で、第2班の人達は先発隊の苦労話に涙します。

第1班と2班は庚午丸で無事に小樽に到着すると開拓使の指示で石狩に向かいます。石狩は当時栄えていた漁場の一つで、徒歩で向かう途中の朝里・銭函間には山が海に迫る険しい岩場の道が続きました。

男達は荷物を背負い老人や子供と女性は手を取り、声をかけ合い進みます。10月になって風は寒く、海のしぶきを被り冷たい塩水に濡れながら岩場を通り抜けると、地の果てまで続くかと思われる砂浜を歩き、3時間かけて石狩へたどり着きました。

明治12年頃 銭函のカムイコタン付近(北海道大学附属図書館所蔵)
旧白石藩の人達が歩いた当時まだ写真の道はなかった。
銭函2

役人の案内で石狩の住まいを見た一行は声を失います。あてがわれた家は半ば壊れた空き家や漁師の納屋でした。最初の滞在先に石狩が選ばれたのは、西の海岸で最も栄えていた漁場で、このような無人の建物が多くあったためです。

第1班の到着した翌日、第2班も到着し、約600人が当面の間石狩で暮らすことになりました。納屋は広いものでしたが、それでも20~30人ずつ詰め込まれ、一つのかまどで煮炊きを行い生活するので大いに混雑します。

明治4年 石狩海門(北海道大学附属図書館所蔵)
石狩海門

開拓使令規則に基づき、簡単な家具、炊事用具、農具、種子、防寒具、布団が支給されました。しかし、薪を切る刃物は支給されておらず暖を取るには生木の小枝を折って燃やすしかないため、家の中が煙で充満し10人のうち9人まで眼病になり、喉を傷める者も多数出ます。

与えられた防寒着は綿入れのもの1枚しかなく、老人は昼間も布団にくるまったままで、まるでダルマがあちこちに転がっているようでした。

浜の人達は「仙台様は死なねばよいが・・・」と心配そうに眺めて哀れみます。漁師達の心配もむなしく、数人の老人が開拓を夢見たまま石狩で亡くなりました。

明治10年頃 石狩川鮭漁(北海道大学附属図書館所蔵)
石狩川鮭漁

破れ家で寒さをしのいでいた一行ですが、外の浜では鮭が大漁でにぎわいます。対照的に海を知らない白石の移民団にとっては、居並ぶ漁船が珍しく目を見張る日々でした。

石狩に着いてこのような生活をしながら2週間が過ぎたころ、移民団取締の佐藤孝郷は、札幌本府の開拓使から今後のことについて呼び出しを受けたのでした。

安政6年 (1859) 石狩の図(北海道大学附属図書館所蔵)
石狩の図

【参考文献・施設】
新札幌史
白石村誌
白石発展百年史
白石ものがたり
外務省HP
函館市公式観光情報HP
北海道大学附属図書館